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2013年8月26日 (月)

♪On The Sunny Side of the Streetの歌詞と日本語 ―"This Rover, crossed over."― James Ellroy(ジェイムス・エルロイ)のBlood's a Rover(2009)を読んだ。"Rover"・・・・・・ウム。

2013.8.26
 James Ellroy(ジェイムズ・エルロイ)のBlood's a Rover(2009作品)を読んだ(*1)。 その題名の意味、含意についていろいろと考察しているなかで、ある曲を、ジャズ・スタンダードを連想した。
 On The Sunny Side of the Streetである。歌詞に、"This Rover, Crossed over"というくだりがある。それが連想を引き起こした理由だ。
 そこで、事のついでに、その歌の歌詞と日本語訳を記事にして載せることにした。
 語っている物語というか、描いている世界というか、相互に全く関係ないんだけどね。

◆◆◆◆◆◆◆◆
 記事投稿を一ヶ月も空けてしまったんだが、――暑くて暑くて、熱くて、もう、ドロドロ、ネトネトで、死にかけていたからだが ―― 、やっと涼気の気配、とにかく、なんでもいいから、とにかく、一つ記事を乗せて、再開の呼び水にしなきゃいけないということもある。そこで、手っ取り早く済むもので、ということで、この記事だ。

*1.James Ellroy/Blood's a Rover
                                   (脚注だがm普通サイズで記す)
 
犯罪/暗黒小説で知られるアメリカ人作家。
(a)その猟奇的ともいえるほど奇異な生い立ち、
(b)作品題材として1940年から70年代にかけてのアメリカ裏社会の政治面、社会面、経済面での陰謀の暴露を粘着質的ともいえるほどしつこく追っかけているという姿勢(ケネディ兄弟、キング牧師暗殺に潜むマフィアの暗躍、フーバーFBI長官による赤思想弾圧、黒人解放運動破壊工作など)、
(c)特異な文体(主語や動詞を省略して、ボーンと放り投げるような、ぶっちぎったような文章、電話会話/電報通信文体、日記モノローグを通じて筋を語っていく手法を多用する構成)
  などの点から異彩を放ち、その風貌ともあいまって、異色的存在である。
 「アメリカ文学界の狂犬(mad dog of American Letters) ― 自らそう名乗っているという。

  作品群の中に、①American Tabloid(1995)、②The Cold Six Thousand(2001)、③Blood's a Rover(2009)というのがあり(↓画像)、登場人物、背景社会、描かれている事件、時系列的時代推移などにおいて相互に密接な関連性をもっていることから、俗に、Underworld USA Trilogy(「アメリカの暗黒世界をえぐる三部作」の意)と総称されている。
 "Blood's a Rover"は三部作の最終作である。
    ----------------------脚注(1)終わり----------------------

Bloods                             (Under World USA Trilogy、
アメリカの暗黒世界三部作)

 エルロイを知ったのは、いつのことだったか、偶然、"White Jazz"という当人の1992年作品(↓画像)を書店の棚から抜き取って手にしたことに始まる。昔のことで記憶が薄らいだが、確か、そうだった。それを手にしたのは、単に"Jazz"という文字に目を惹かれただけのことによるものであった。探偵物というかスリラーというか、そういうものでジャズを題材にしたものはないかと、いろいろ探していたのである。

 伊勢佐木町(横浜)有隣堂でのことであったか。
 まだ4階洋書コーナーが、どんと威張って構えていたころのことだ。
 確か、Nelson DeMilleについてであったか、こちらが「その本はないか」みたいな質問をして、返ってきた答えから、その女性店員さんの、「うんちく」、洋書/海外作家についての深い知識を感知し、驚いたころのことだ。

 そういう人がいた。正社員かパートか知らぬが、そいうい「人材」、「専門職みたいな「店員」さんを配置することが書店としての、大型洋書コーナーを設けるだけの書店としての、一流書店としての務めであるとする職業倫理、見識、矜持がまだ実効性を有していた時代だった。
  (よかったねえ、あのころ。「労働法」、「労働問題」、人間社会の根元的な問題追及みたいなことが、この世から消え去ろうとしていた、ぎりぎりのときだったけど)

 以降、本屋に寄る度に、まあ、伊勢崎町有隣堂だが、「エルロイ、ないか、ないか」と探して、苦労しながら追ってきた。
 "amazon"なんてものは存在しなかった時代だ。そうやって見つけるしか、すべはなかった。

 この三部作3冊は、「とにかく手に入れたい」という想いから、amazonで買った。つまり、書店洋書コーナーでの、「探しに探して探し当てた興奮」だの、「思いもかけず、いきなり出くわした幸運の喜び」といったものに出会うことのありうる愉しみを「犠牲にして」、「新自由主義横行の象徴」みたいな"amazon"から買った。

 ただし、三冊買ったんだが、第一作は飛ばして、第二作から読み始めた(つまり、American Tabloidはまだ読んでいない)。そのせいで、第二作、"Cold Six Thousand"、読み始めてしばらくは、話の脈絡がつかめないところがあり、とまどい、筋を追うのに苦労した。やたら、登場人物が多いので、進んだり戻ったり、ノートにメモを取りながら読まないと何がなんだかわけが分からなくなる、ということの追い打ちが苦労に拍車をかけた(最初のうちは、余白に人物メモを書きこんだりしていたんだが、それでは追いつかなくなった)。


La2                                                                     
(White Jazz)

  右端が"White Jazz"。この、The Black Dahlia(1987)、The Big Nowhere(1988)、L.A. Confidential(1990)、White Jazz(1992)を、俗に、L.A. Quartet(L.A.四部作)と総称する(L.A.は、いうまでもないが、ロスアンゼルスルのこと)

◆◆◆◆◆◆◆◆
■■■さて、歌詞/日本語訳に移ろう。
                          ♪参考資料[歌詞翻訳曲目一覧/ページ相互リンク]

                On the sunny side of the street
                                       
(w) Dorothy Fields (m)Jimmy McHugh, 1930
[Verse]
Walked with no-one, and talked with no-one,
       and I had nothing but shadows.
Then one morning you passed and I brightened at last.

Now I greet the day,
      and complete the day with the sun in my heart..
All my worry blew away.
When you taught me how to say: 


[Chorus]
Grab your coat and get your hat,
  (and) leave your worries on the doorstep.
Just direct your feet to
 the sunny side of the street.

Can't you hear a pitter-pat?
 And that happy tune is your step.
Life can be so sweet
 on the sunny side of the street.

I used to walk in the shade
      with the blues on parade.
But I'm not afraid,
   (because) this Rover, crossed over.
If I never have a cent I'll be rich as Rockefeller,
   (with) gold dust at my feet on the sunny side of the street.

             オン・ザ・サニーサイド・オブ・ザ・ストリート

         (「明るい表通りで」、「明るい街角で」
―この二種の邦題が浸透している)

(バース)
 歩くときはいつも独りぼっち、話し相手もいなかった、ずっと。
 あるのは、陰気な暗がり、憂鬱だけ。
ところが、ある朝、君が通りかかり、ぼくの心が晴れた。
 やった! ついに!

 いまでは、張り切って毎日を迎え、心に太陽を宿して日を終える。
憂鬱は吹っ飛んだ、霧散した、
君から歌を教わったときに。
そう、次のように心に言いきかせて唄うようにと。

(コーラス)
 さあ、上着を掴んで、帽子をかぶり、外に出よう。
悩み事なんか、戸口の階段にうっちゃっておけ。
足を、通りの、陽の当たる側に向けさえすればいいんだ。

 パタパタという音が、ほら、聞こえるだろう、
楽しそうな音が、あれ、アンタの足音だよ。
な、日の当たる側を歩けば、人生は楽しいものになる。

 これまで、ずっと日陰、裏通り歩いてきた、暗い人生を。
あれやこれや、陰気に憂鬱をいっぱい抱え込んで。
だけど、オレはもう負けないぞ、
なぜって、オレはそんな流浪者だったけど、
 もう、通りの向こう側に渡ったから、生き方を変えたから。

 一文無しでも、気持ちは、ロックフェラーだ。
足元には、砂金があふれているもの。
 土には金(きん)の価値がある、
明るく表通りを歩く人生ではね。


一、曲について ( 由来など)
(1)1930年のブロードウェイ・ミュージカル、"Lew Leslie's International Revue"(単に、"The International Revue"ともいう)の劇中曲として世に出た(Wikipedia)。

 ジャズスタンダード曲を唄う場合、それがブロードウェイ・ミュジカルなど劇中の歌である場合には、劇中のどのような場面で、どのような状況設定で唄われるのか知ることが重要である。歌解釈との関係で重要である。
 誰が誰に向かって唄うのか、口説いているのか、心離れを詰っているのか、隠れた恋心を切なく訴えているのか、などなど。
 その元の劇において、その歌がどういう意図で、どういう効果をあげるために挿入されたのかを知ることが大切だ。
 
 その当初の「目的」どおりに唄えといっているわけではない。つまり、曲解釈、歌詞解釈、歌唱表現検討において、そのことに絶対的に捕われる必要はない。
 そうではないが、――「歌詞解釈の変遷」ということがありうるのだが、そのことについては、何度も記事に取り上げてきているのでここでは繰り返さないが――、とにかく、なんであれ、当初の、歌の登場時の状況設定を知ることは、歌解釈の「出発点」として大事なことである。

 だが、ここでは、それを知ることはできなかった。
 どのような劇なのか、ネットを探したが、興行年度や出演者など、表面的素要だけを示したものはあるが、どのような物語なのかを(「物語」が存在するとすればのことだが)教えてくれる記事を見つけることはできなかった(Lew Leslieという人物については、ココと、画像ココを見よ)
 ただひとつ、劇中に、(i)ワルツ舞踏、(ii)ベッドルームでのお笑い劇、(iii)ロシアバレー練達者による、目まぐるしく飛び跳ねるバレー舞踏が存在するということを示唆している記事があったが("TIME magazine"記事)、劇の筋書きには触れていない。
 (このTime magazine記事のURLは<(http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,752398,00.html>である。参考までに掲げておくが、接続が円滑にいかず、ハングアウトを引き起こすかもしれない。その危険があることを断わっておく) 

(2)バースがあるなんて、知らなかった。
  これまで、いろんな演奏を聴いたが、耳にしたことがない。今後も、おそらく現れないだろう。
  この記事を書くために歌詞を確認しようとして全音楽譜出版社「スタンダード・ジャズのすべて」②を見たのだが、そこで、バースの存在を初めて知った。
  まあ、唄うとすれば、この部分はゆっくりとルバートで唄いコーラスにつなげるということにしなきゃいけないだろうね。

  バースとコーラスの関係は次のようになっている。
---------------------------------
(バース)
 君に出会って心が晴れた、次のように心に念じながら暮らせと教わってから。すなわち、こうだ・・・
(コーラス)
 ウジウジ悩まず、明るく生きよう、楽天、楽観、能天気・・・明るい表通りを歩こう。
----------------------------------
 こういう関係だから、いうならば、「コーラスだけ唄えば充分、バースの重要度は薄い」ということになる。
 バースを唄う歌手が皆無なのは、この故ではないか。
 まあ、そういう曲は、バースが死んでいる曲は、これに限らず、他にもいっぱいあるんだけどね。

 この関係で笑ったのは、オランダでの「年寄り歌唱コンクール」みたいな催しで( "Senior Song Contest 2007" in Amsterdam)、ひとり、おっさんがこれを、バースを唄っていることだ。YouTubeの場にある。

 このWebページでそれを知った。
  (ずらずらとリンク・リストが掲げられているなかの、「Ferry Verschuyl sings with the verse*. 2007」)というのがそれ。バース文言記述のすぐ上にある。
  それにしてもすごいね、このページ。この曲についてこれまでに存在するインスト/ボーカル録音を、YouTubeの世界でのことだが、探しに探しまくって、網羅的に掲げている。敬服の至り、感服する。CDの紹介もある)。

 さて、話を戻して、おっさんだが、死滅しているバースを、なぜ唄ったのだろうか。
  <<<バースがあるんだよ、アンタら知らないだろ、Jazzを唄うときにゃ、いろいろと研究しなきゃいけない。バースというものがある場合には、コーラス部分しか唄わなくても、――いいかい、それしか唄わない場合でも――、バースとの関連性を一応は知っておかなければいけない。知ったうえで歌詞解釈をしなきゃいけない。「レンディッション」ということを、しなきゃいけない。とにかく、俺はバースを唄う>>>。
 ハハ、そんなことはいってないか。
 上位入賞を果たすための工夫であろう。奇をてらって、まあ、それではことばが悪すぎだが、珍奇性、珍しさを売り物に、入賞への推進ロケットにしようとしたのであろう。

(3)作曲者、作詞者については(Jimmy McHughDorothy Fields)詳 しは触れないが、この劇から、もう一つ、Exactly Like Youがスタンダード化しており、他に、このコンビによる曲として、I Can't Give You Anything but Love(1928)、I'm in the Mood for Love(1935)がある。

二、翻訳工房
(1)"But I'm not afraid, (because) this Rover, crossed over."
(i) 全音楽譜出版社「スタンダード・ジャズのすべて②」では、次のようになっている。つまり、途中にカンマも何もない。これが原歌詞か、おそらく違う。
      
      But I'm not afraid this Rover crossed over.
                 
 向こうの人は、これで意味がつかめるのだろうか。判断しかねるが、次のように考えてよいのではないか。
(イ)印刷文字を目にする場合は、意味をつかむこと自体はできようが、前後の脈絡からして何を述べているのか推測することはできようが、一瞬とまどう。たじろぐ。そして、「何だこりゃ」と、記述の不作法、文法無視に腹を立てる。
 すなわち、次のようにしなければならないと指摘するのである。
       (x)But I'm not afraid, this Rover, crossed over.

       (y)But I'm not afraid. This Rover, crossed over.
(ロ耳から聴く場合には(唄うのを)、意味がつかめる。
        But I'm not afraid ///this Rover///crossed over.

 といように[///]の部分に間を置くからである。
すなわち、上の(x)や(y)と同じことになるからである。

(ii)ここで、"afraid"の用法」に触れておこう。上記議論の基礎になる事項だから。
   [恐がって]
          I'm afraid of.....
   [心配して、気がかりで]
          I'm afraid about(for, of)......
 これが用法である。「恐れる」対象、「気がかりな」対象は、必ず、of, about, for, ofという前置詞を置いて表わさなければならない。だから、ここでは、下に見るように、「何々を」恐れていない、「何々を」心配していない、という「何々」が省略されているのである。
        But I'm not afraid (of.....), this Rover, crossed over.
               But I'm not afraid (about, for, of.....), this Rover, crossed over.
  言い換えれば、[But I'm not afraid]で文章は終わっているのである。だから、afraidの後にカンマかピリオドを打つ必要がある。
       But I'm not afraid this Rover crossed over.
        こんな表わし方は許されない。
   ("afraid this Rover"― 「this Roverがafraidの対象」、なんて考えてはいけない)
  
(iii)以上、長くなったが、とにかく、この文章は意味が分かりにくい。
 そこで"because"を挿入することが行われるようになった。そのように唄っている歌手が多い。
         But I'm not afraid, because, this Rover, crossed over.
            (カンマはあってもなくてもいい)

(2)"Rover"
(i)まず、"rover"という語句の意味。
 元来は、「流浪者」、「漂流者」ということだが、ネクラ(根暗、ねくら)思想の、ネクラ人生を送っている者」、あるいは、「陰気に悩みをいっぱい抱え込んでネクラに暮らしている生活ぶり」といったことを指している。
(ii) "this Rover"
   "Rover"と大文字になっているのは、「この流浪者」と、自分のこと(または、自分の生活ぶり、これまでやってきたネクラ生活)を指しているからである。
 「オレはもう生き方を変えたんだから」と、特定性を持たせるために大文字にしているのである。

 ネットの歌詞紹介ページには、"this rover"と小文字にしているところがあるが、勝手に変えてもらっちゃ困るね。まあ、バースで述べているような「流浪人生」、「根暗人生」を指しているということが、分かるには分かるが、そこにたどりつくのに時間がかかる。大文字になっている場合には、「あ、そうか」とすぐにひらめく。「すぐに」ではなくても、比較的短時間で閃く。

■サッチモ vs. ティガーデン、巨人同士のバトル

  Loui Armstrong vs. Jack Teagerden


(1)初めてこれを聴く人は、演奏に、ルイの歌唱に驚くであろう。
    「あれ、遅い! これって、あの曲?」
  驚きが持続し、やがて1コーラスが終わり、ルイが、そのゆっくりしたテンポで、ゆったりと、フェイクで唱に入っていく(原旋律そのものではなく、ジャズ的に崩した旋律で入る)、いくらか沈んだ口調で、そのなかにも後方から明るさが射してきているような口調で。
 他に類をみないレンディッションだ。

  「アレッ」、「この人、歌、間違えてる」、「いや、いや、違う、そうじゃない」・・・意表を突かれ・・・聴き、しばらく聴き・・・、そして、感動がやってくる、涙ぐむ感動が。
 これぞ、「ジャズ」歌唱、その真髄だ。
 これじゃなきゃな、「ジャズボーカル」というものは。
 調子のいい、アップテンポの、行進曲みたいな歌――100人が100人、この曲につてそのイメージしか持っていなかったなかで、これだ、1947年のことだ。
 Luis、46歳、Jack、42歳。

(2)インスト演奏面でも白眉(はくび)。
 ティガーデンの偉大さを天下に知らしめた演奏である。
   トロンボーン。
   注目して、よく聴いて。
 「アンサンブル」での秀逸な「からみ(絡み)」、そして、ルイの唱になってからの歌唱につけていくオブリガート、これがすごい。そして、そして、そして、唱が終わって、おもむろにソロ。

 場内はルイの歌唱に興奮して、感動して、大拍手を送っている、ぱちぱち、バチバチバチバチ、興奮のるつぼ、総立ちだ、スタンディング・オベイション.....しかし、「ウン?」、「アレ?」 、トロンボーンが・・・・・・。

 --- 静まり返る。どうだね、これ、ジャクティの血を吐くようなソロ、このソロ、一世一代のソロ・・・、もう涙なくしては聴けないね。
 涙もろいようなことばっかりいっているが、さっきから。

 .まさに、巨人、天才ならではのものだ。
 ある意味、この演奏は、ルイの秀逸演奏としてよりも、ジャクティーの名演奏として、見事な「アンサンブル」を創り出す奏者として、傑出したソロ奏者として、その偉大さを示すものとして知られる向きもある。

(3)世紀の名演奏といえる。

(4)からみ(絡み)、アンサンブル
 ニューオリンズ・ジャズ/デキシーランド・ジャズ(New Orleans Jazz/Dixieland Jazz)では、「三管のアンサンブル」ということを重視する(*2)。
 どういうことかというと、ジャズ発祥時ニューオリンズで初期から聴かれた標準的編成バンド、すなわち、トランペット、クラリネット、トロンボーンの3管、プラス、バンジョー、チューバ、大太鼓、小太鼓、ピアノ(場合により)というバンド(あるいは、「ブラスバンド」)においては(*3)、次のような「美しさ」が、なんともいえぬ「味」が、「よさ」、「感動」がみられた。

  <<<トランペットがテーマを吹き、トロンボーンが和音進行を低音部で示しながら、同時に、曲に、演奏にリズム感を与えていく。強力に与えて行く。「タタタッタッタ」のごとし。
 これに、クラリネットが、そのなかを縫うように、泳ぐように、あるいはアルペジオを奏で、あるいは「ピーッ」と高音を長く伸すなどして、色彩をつけ、明るく、暗く色彩を付し、オブリガートでラッパ(トランペット)に応じるなどして三管が奏でる全体音、音楽に幅を与え、層を豊かにしていく>>>

 こういう奏法というか演奏様相のことを「絡み」(3菅が相互に「絡んでいく」様)といい、あるいは、全体としてのその様、ないし、出力としての成果物音楽、音楽的効果を、「アンサンブルと称した。
 もちろん、演ってる連中がそんなことをいったわけではなく、「そんな、小難しいこた、こちとら知らぬ、どうでもいいことだ、自然にやっているだけだ」ということだから、いったわけではなく、その後になんだかしらんが湧くように現れてきた「評論家」たちがいいはじめたことだ。 (まあ、しばらく時代を経ると、奏者自体も意識するようになるんだけどね)
 評論家連中は、この「絡み」、「アンサンブル」の善し悪しを演奏評価の絶対的要素としてきた。
 楽器操縦の上手い下手はあまり関係ないんだよね。多少メロディを間違えても、「ピー」だの「プー」だの「ガー」だの、「ズボ」だの変な音が混じっても、「アンサンブルが秀逸だ」なんて宣うて、その演奏、レコードに五つ星をつける。

 うん、ついつい長くなったが、上の「(2)」で述べたことは、このことに関係する。いわば専門的議論なので、ここで一言しておく。

*2.デキシーランド・ジャズ/Dixieland Jazz
 「デキシーランド・ジャズ」ということばは、場合によって、次のよう、異なる意味で使用される。
(1)
トランペット、クラリネット、トロンボーンの3管、プラス、バンジョー、チューバ、大太鼓、小太鼓という標準編成楽団によるジャズ音楽がニューオリンズで興り、育ったわけだが、それはやがて、シカゴへ、ニューヨークへ、西海岸へ、全国へ、あるいはヨーロッパへと浸透していった。
 世界各地で演奏されるこの種のジャズ音楽を総称的に指す。
 チューバに代わってコントラバスが、バンジョーに代わってギターが入ったり、太鼓陣に各種シンバルが加わったり、ピアノが加わったりという変容はあるが、とにかく、この6、7人編成による伝統的形式のジャズ音楽のことをいう。
 さらには、シカゴにおいて当地の若手白人を中心とする集団によって「シカゴ・スタイル」、「シカゴ・ジャズ」という派が生まれ、発展していったということがあるが、その派も含めて表わす総称である。

(2)上で述べたこの種の音楽には、やがて、浅薄なもの、軽薄/浮薄なハッピー性だけを狙ったもの、商業性に堕した音楽/派が現れてくる。愛好者の一部や批評家などからそう批判される派が現れてくる。
 ニューオリンズでの発祥当時からの、黒人音楽としての伝統的な美しさ、味わい、よさ、みたいなものを大切にする派は、「デキシーランド・ジャズ」という名のもとに、自分たちがそういう浮薄音楽といっしょくたに(一緒くた)に語られることを嫌い、そのようなニューオリンズ伝統を温存するジャズ音楽を区別して表わすものとして、別途、「ニューオリンズ・ジャズ」という呼称を使用するようになる。
 そこで、上記「(1)」のデキシーランド・ジャズ概念からこの「ニューオリンズ・ジャズ」を除いた概念としての「デキシーランド・ジャズ」というものが観念される。

(3)上記「(2)」の概念中の、「
浅薄なもの、軽薄/浮薄なハッピー性だけを狙ったもの、商業性に堕した音楽/派」のことを指す概念として使用されることがある。
 すなわち、上記標準6-7人編成の、カンカン帽にストライプ・スーツ姿の連中による、軽薄ハッピー音楽、伝統的演奏形式には拠っているものの、その中身は、浅薄、軽薄、浮薄な商業的ハッピィ音楽(として堕落したものにすぎない。こういう概念である。
 軽蔑的色彩をもって語られる概念である。
縮めて「デキシー」と呼ばれるときは、この概念が観念されていることが多い。

(4)上記「(2)」からさらに(3)を差し引いた概念が観念される。
 言い換えれば、「(1)」から「ニューオリンズ・ジャズ」と「「3」の浮薄ハッピーものを差し引いたものである。

*3.ブラスバンド
 どこどこ自衛隊ブラスバンド、どこどこ消防隊ブラスバンド、全国高校ブラスバ ンド競技会みたいなことをイメージしてはいけない。そんな形式ばったものではなく、ここでいう「ブラスバンド」は、お祭り、祝い事、葬式といった催しが あるときに町に繰り出す、あるいは街角で演奏する、多分に楽器を手におっとり刀で駆けつける人たちの集団のような(もちろん、事前にきちんと「編成」され ている集団である場合もありうる)「楽団」のことである。
 いわば、「楽団」というイメージで連想してほしい。

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コメント

歌詞の和訳を探していてここに辿り着きました。詳細な考証をありがとうございます。
ハリー・リッチマンはバースをきちんと歌っているので、情報のひとつとしていかがでしょうか。
https://www.youtube.com/watch?v=siel-9GXL_4

投稿: N | 2014年5月12日 (月) 17時50分

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